お花の話、植物の話、
そうゆう話になると早口になるくらいいっぱい話してしまう。
でもなにもお花や植物に興味があるひととたくさん話をしたい、とゆうわけでもない。むしろ、おなじ考え方をするひとと話をしていることがあたしにとって大事だったりする。
たとえば、あたしがお花の話を思わずしてしまう温度でコーシーや音楽がすきなひと。
たとえば、仕事に対する姿勢であったり、ひととの関わり方だったり、が似ているひと。
ここでもっとも重要なのはゆるしがたいこと、受け入れがたいことがおなじであるとゆうこと。つまり、嫌いなものが同じであること。やりたくないことが同じであること。ここのポイントが同じだと、とことん仲良くなれるから不思議だ。
あたしはがさつで大雑把で、できればズルして生きていたい人間だ。正しくもていねいでもない。そうゆうゲスの部分を受け入れられるかどうかなのだ。おたがいにここのポイントがずれてしまうと、なんとなし居心地が悪くなってしまう。
むかし、学生のころなんて同じ音楽をすきなひとをすきになったりしてた。すきな部分を共有していることが「合う」ことだとすっかり思ってて。
もちろん、それもすてきだけれどそれはきっかけのひとつかな。もっと「合う」ひとはそうじゃあない。だからいまのあたしにはアイドルファンやマンガ好きの主婦やネクラな社長の友だちがいる。彼らとは考え方がとても似ているからだ。彼らはちっとも植物には興味がないし、あたしはアイドルとマンガにそんなに興味ないし、ネクラなやつの闇の深さに近づきたいとも思わない。笑
それでも切っても切れない縁がある。
すきなものはわりとめまぐるしく変化していく。まわりの影響を受けたり世界が広がったりして。そうして次々に咲いていく世界にいつだって夢中だ。それなのに、受け入れがたいものはさほど変化はない。その幅が変化するくらいで、ほんとのところ、受け入れられないものは受け入れられないのだ。ゲスな部分の本質。
そうゆうものってね、なんか匂うの。おんなし匂いがするのね、なんかよくわからないけど。話をしていけばいくほど、話題にしなくても、それとわかるもの。これほんとしみじみ思う。
まちがっているのかもしれないけどね。