夕方ちかくに有線から流れてきた、
「夢ならばどれほどよかったでしょう」と。
ドラマでよく聴いた米津玄師のlemonだとすぐに分かった。けれど実のところ歌詞はほとんど知らないでいた。でもハミングすることはできる程度。ちょうど事務所を行き来する人音も途切れたその瞬間はっきりと耳に届いた「今でもあなたは私の光」は完全に不意打ちだった。奥歯を噛み締めて涙をこらえていた。
まるで何年もかけて答え合わせをしているような言葉がいくつか胸の奥底にあるようで、ときおりこんなふうに思い出す。かつて「あなたはわたしの光なんです」と言ってくれたひとがいた。そのときは大袈裟だなあなんて笑っていたし、この歌詞を聞くまで思い出しもしなかった。
その瞬間いろんな思いの点と点がいちどに結びつき、ようやく分かる。友人や恋人や家族、そのどの呼び名もしっくりこないあるいはすべてを含む私の大好きなひとたち。ここでは3つ下の後輩と係長のことだが、ふたりは私にとっての光なのだと思った。眩しく映る彼らはともすれば苦しくなってしまうはずなのに、不思議と居心地よく私を導いてくれるひとたちだ。と同時に私を光だと言ってくれたそのひとは同じ思いを抱いていてくれていたのだろうか?との思いが綯交ぜとなり泣きそうになってしまったのだ。
たぶん、だれかの光になることはだれかの希望になることなのだろう。そう思えるひとに出会えたこと、気づけたことにとてもとても嬉しく思う。それにしてもいつも気づくのが遅い。いまはまだ思い出せない忘れてしまった奥の奥底の言葉たちの「意味」を知るのにまた何年も費やしてしまうのかもしれないな。ああ、あのときの答え合わせもしてみたいな。それはいまさら野暮かしら。
ナイーブなきみよ、お元気でしょうか?