ずっと村人Aだった。
村人Aでいることを良いとも悪いとも思わずにこれまできた。ただ、自分のポジションは村人Aだと自覚してきた。今の職場で働いてみてようやくわかったのだけどそこでのあたしは村人Aではなくただの群衆であり、もっといえば風景だったのだ。もう転勤するからいいんだけど。
村人Aというポジションはつまり主役ではないし、台詞もほとんどない。「村人A」という役名と「さあ、みんな行こう!」ぐらいのひとことの台詞がある程度なのだ。そこで気がついたのは名前と台詞が与えられているということ。ずるいあたしは無意識にそれを求めていたのだと気がついたのである。
名前と台詞を与えられた村人Aはその演劇において参加している、自分の役は替えが利くけれど確かに存在しているのだと思うことができるので役を全うすることで村人Aなりの達成感みたいなものがあるのだ。
さっき観たテレビドラマの中でなんともありふれたワンシーンに泣けてしまった。田舎からミュージシャンになろうと上京してきた若者が夢やぶれて深夜バスに乗ろうとしたとき、ちがう夢を追う同じ境遇の若者が最後に1曲歌ってほしいと言うのだ。
あるある、はいはい、ここ良いシーンてやつ?ぐらいに思っていたのに彼らもまた村人Aであり、村人Aでいたいのかもしれない。夢は夢として大きくありその一方現実では村人Aでありたいのだ。名前と台詞を持ちたいのであり、たぶんそれ自体が小さくありふれていてみんながどこかで思っているんだろうと思うと安心するやら世知辛いやらで泣けた。
このタイミングで志半ばにした彼が最後に歌ったのが斉藤和義の「空に星が綺麗」である。このタイミングの斉藤和義まじ神。
「笑ってはいるけれど
目に見えない涙こぼれるね
口笛吹いて歩こう 肩落としてる友よ
誰も悪くはないさ
きっとそういうもんさ」
自分が何者であるか、何者でありたいかなんてあたしにはハナからなくて、村人Aで良くて村人Aが良くて。でもそれすら、かなわないときもあって。それはみんなそうなのかもしれないね。だからときどき見えない涙こぼれるね。